公開: 2020年3月20日
更新: 2020年3月23日
エミシ(蝦夷)とは、現在の福島県会津地方から宮城県仙台市を結ぶ境界線より、北側に昔から定住していた人々を指す言葉です。これらの人々の中には、毛皮や海産物の交易のために、南の地方から移り住んだ倭人(わじん)もいましたが、多くは土着の人々で、縄文時代から狩猟民として生活していた人々でした。その中には、北方系のアイヌ民族もいたと言われています。
そのような人々は、数百人から千人程度の規模の集団で、それぞれの地域を拠点としていました。そのような集団の一つに、岩手県胆沢(いさわ)を拠点としていた部族があり、その族長は阿弖流為(あてるい)という名でした。当初、そのアテルイが率いた部族は、倭人との交易で潤っていたため、エミシの部族と倭人との争いには反対の意見だったと言われています。
大和朝廷は、交易と領土の防衛のため、仙台の多賀城市に、大きな砦(とりで)を建設し、関東各地から数多くの兵士らを送り込み、住まわせていました。この多賀城を拠点とする朝廷軍と、現地のエミシ軍との争いが激化すると、大和朝廷は、大軍を多賀城へ送り込み、エミシ軍を制圧しようとしました。その戦いでは、エミシ軍は、アテルイをエミシ軍の大将として戦い、朝廷軍の攻撃に対して、根強く抵抗しました。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として、途中から朝廷軍を率いてこの戦いに参加しました。坂上田村麻呂とアテルイとの戦いは、なかなか決着しなかったため、二人の将軍は密かに相談をして、「アテルイが田村麻呂に降伏し、捕虜として田村麻呂に従って京に上り、朝廷にエミシも朝廷に従うことを宣言することで、朝廷軍はエミシを攻めるのを停止する」という約束を取り決めたようです。
アテルイは、この約束に従って、500人程のエミシの兵を率いて、田村麻呂を訪れ、朝廷軍に降参しました。田村麻呂は、アテルイを捉え、彼ともう一人の将軍を連れて、京へ凱旋しました。京では、桓武天皇と公家たちが、アテルイ達の処分を協議した結果、田村麻呂がアテルイの釈放を主張したにもかかわらず、打ち首の刑に処すこととしました。アテルルイらは、現在の大阪府枚方市辺りで、首を切られたとされています。